ことばと世界(1)「世界はひとつ ...」と言うフレーズが、
頭に思い浮かぶ。ディズニーのアトラクションの、テーマソング
である。さて、果たして本当に「世界はひとつ」なのだろうか。
「ことば」を使うヒトと、使わない動物の差に着目しながら、
考えたい。
ことばと世界(2)動物行動学者のヤーコブ・フォン・
ユクスキュルによると、動物にとって「世界」というのは
「知覚できるもの(見たり聴いたり触ったりできる)」と
イコールであり、その上で更に、その個体にとって「意味」
のあるものが選別され、その選別されたものの集合が世界を
形作るのだそうだ。
ことばと世界(3)では、動物にとっての「意味」とは何か。
「生存」と「生殖」、つまり生きることと生むことだろう。
そもそも、例えば視覚は絵を見るためにあるのではなく、
外界の危険を察知し、エサを探し、パートナーを捜す ..
といった、生存と生殖に直に結びつく行為のためにある。
ことばと世界(4)つまり、動物にとっての「意味」とは
「生きる意味」であり、その生きる意味とは、つまるところ
「生きることそのもの」なのである。ゆえに、動物にとって
「世界」は、「感覚の限界によって仕切られた枠の中で、生きる
ために知らなければいけないものの集合」である。
ことばと世界(5)では、人間にとって「世界」とは何だろうか。
言い換えるなら、人間にとっての「意味あるもの」とは何か。
それは、「意味を与えられた知覚対象」と、「知覚の外に
作られた意味」である。世界は、それらの集合体だ。そして、
上記の2つを作り上げるのが、ことばだ。
ことばと世界(6)知覚対象に意味を与えることが、ヒトに
とって、生物としての生存に結びつく場合とそうでない場合が
ある。生存に必要なエネルギーをそこから摂取するものは
五感によって知覚されるが、例えば数ある対象の中から「キノコ」
と「毒キノコ」に別々の意味を与えることは、生存に結びつく。
ことばと世界(7)それに対して、土に植わっている、ある種の
植物に「桜」という名を付け、「鑑賞するもの」、「儚い」などの
意味を与え、それを愛でて歌を詠むということは、生物としての
ヒトの生存との関連性は薄い。この場合、桜は、「意味を与え
られた知覚対象」である。
ことばと世界(8)また、ことばによって、ヒトは、実際に
知覚したことのないものに意味を与えることもできる。
ことばと世界(9)例えば、異性と手をつないだことがない人が
「手をつなぐ」という行為に対して憧れを抱く場合、その人は
「手をつなぐ」感覚よりも、「手をつなぐ」ことに個人的に
(あるいは共通事項として)付与された意味に憧れるのだ。
その場合に付与する主体は本人であっても本人でなくても良い。
ことばと世界(10)まとめてみると、ヒトの「世界」は
大きく ①知覚(痛い、くすぐったい) ②知覚対象に与えられた
意味(桜、恋人、机) ③知覚できないもの(意味 a。
正義、企業、義務)に与えられた意味(意味 b「べきである」
「〜のために」)の3つのカテゴリーに属するもので成り立つ。